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世田谷美術館へ [街歩き・旅(関東)]


        

世田谷美術館で3月11日まで開催中の「富本憲吉展」に行ってきました。
2006年が生誕120年にあたり、京都を皮切りに今年の夏まで全国巡回展が行われています。

ルートは小田急線・東急東横線・田園都市線といくつかありますが、お天気もよいし穏やかな
お天気だったので用賀駅から徒歩にしました。
15分あまり歩くのですが、要所要所に標識が出ているので初めてでしたが迷うことはありま
せんでした。



        
遊歩道が整備されていて傍らが水路になっています。「いらかの道」と表示が出ていました。



 

        
                 タヌキの水道。小さい子が喜びそう。

 

 

        
     すぐそばはアパートなどの住宅街。静かで散歩するにはいい場所ですね。

 

 

        
        駅からずっとこんなふうに歩道に百人一首が刻まれています。
        きれいな散歩コースの最後はちょうど百首目になっていました。

 


        
美術館は砧公園の一角にあります。環八を渡って公園の道を進むと木立と芝生に囲まれて
建物が現れます。併設のレストランそばにはこんなにりっぱな木が。
銘木百選の札がかかっていました。葉をいっぱいに繁らせる頃に見てみたいものです。

 


 

        
         エントランス付近 美しい建物です。

 

 

        
        この四角のモチーフがあちこちに使われています。

 

 

 


        

富本は1886年奈良県安堵村の旧家に生まれました。
東京美術学校(現・東京芸大)で建築と室内装飾を学び、想起に卒業制作を提出して英国に留学
しました。帰国後バーナード・リーチと信仰を結び、安堵村の自宅に楽窯を築いて製作した楽焼
から本格的に陶芸の道へと入っていきました。1926年には上京し、現在の上祖師谷に新居と窯
を築き終戦まで製作の拠点としました。戦後は京都に活動の場を移し、色絵磁器の技術の洗練
のみならず、金銀彩の世界に新境地を見出し、1955年には「色絵磁器」で第一回人間国宝に
認定されました。
1963年に他界するまでの約50年にわたる多彩な作陶活動は、「模様から模様をつくる可から
ず」という信念のもと、オリジナルな形と模様をひたすらに追求し、用と美の結合という工芸のあり
方を求めて格闘した遍歴の軌跡でもあります。  (チラシより)

 

        
         生家近くにあった老樹を描いた陶板 1924年  

 


             
初期の白磁。
作品以外に文書も数多く展示されていて、その中で白磁に関するものが印象に残りました。
留学中にマイヨールの作品に出会って白磁に惹かれるようになったこと。
そして作陶する時は全体の中でまずできの良いもの3分の1をまず白磁にすると書いています。
ところが安堵時代には何も柄が描かれていない白磁はなかなか買ってくれる人がいなかったと
嘆いているのが興味深かったです。

 

        
        色絵赤更紗模様飾壺 1937年



 

        
        ブローチの数々 

 

 

        
        花字大皿と赤絵・飾筥のスケッチ


親交のあった人々へ宛てたハガキや書簡も数多く出展されています。
郡山中学時代の恩師へのハガキに「名物城の口餅の返礼に・・・」という一節を見つけて思わ
ずニヤリ。バーナード・リーチへの手紙は英語と日本語で筆を使って丁寧に書かれています。

武蔵野に越して来た頃の大和との違いを記した文章や昭和21年の「忘我帖」も興味深く読み
ました。
戦後の混乱の中、高山に着いて味噌を焼いて食べようとしたが味噌がない。
それを「戦の味」と言い切っているところに憲吉の怒りを感じました。手のひらに隠れてしまいそう
に小さな忘我帖の中に閉じ込めた怒り。

60数年前に他界した父を偲びつつ自宅の庭に竹を植えた時の心境を書いた陶板。
「やりたい仕事は山ほどあるのに人の一生は短い、実に短い」
と子供達に遺した言葉など、偉大な陶芸家としてだけでなく人間富本憲吉の一端をうかがい知る
ことのできる展示内容になっています。

 


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